見下しきった悪意。
その言葉に、アイリスは生者の国でセリーナたちから幾度となく投げつけられたものと、全く同じ種類の冷たい刃を感じた。びくり、と。彼女の華奢な肩が恐怖に震える。せっかくジェームズとリリーの優しさに触れて、ほんの少しだけ和みかけていた心が、冷水を浴びせられたかのように、再び固く凍りついていくのを感じた。「……」アイリスが絶望の淵に沈みかけた、その時だった。すっと一人の骸骨が彼女の前に、盾となるかのように、静かに立ちはだかった。ジェームズである。
「エレオノーラ伯爵夫人」その声は、先程までの温かみのある響きとは打って変わり、どこまでも冷静で、刃のような鋭さを含んでいた。「アイリス様は、我が主君が、直々にお迎えになられた、大切なお客様。たとえ伯爵夫人といえども、これ以上の非礼は、王子への侮蔑となると心得てくださいませ」言葉は、丁寧であったが、その眼窩の奥で揺れる青い光は、逆らう者は誰であろうと容赦しないという、絶対的な意志を物語っていた。それと同時に、リリーが、ふわりとアイリスの隣に寄り添い、その半透明の腕で、優しく彼女の腕に触れた。「あら、姫様?どうかなさいましたか?どこかから、不快な羽虫の鳴くような音が聞こえましたけれど……きっと、気のせいですわね」その声はアイリスにだけ向けられた、甘い囁き。しかし、内容は、エレオノーラ伯爵夫人の存在そのものを、完全に無視する辛辣な皮肉に満ちていた。ジェームズとリリーに真正面から庇われ、エレオノーラ伯爵夫人は、その半透明の顔を、屈辱と怒りで、一瞬、醜く歪ませた。「ふん……。いつまで、その『お客様』扱いでいられることかしらね!」呪詛のようなそんな捨て台詞を残すと、彼女は現れた時と同じように、すぅっとその場から姿を消した。後に残されたのは、気まずい沈黙…ジェームズとリリーの気配が完全に消え、アイリスは本当に一人きりになった。彼女は最後の回廊を進んでいく。心臓は先程よりも、さらに激しく胸を打つように鼓動している。(いよいよ、お会いする……この国の、王子様に)一体どのような方が、この先に待っているのだろう。荘厳で恐ろしくも美しい、幽霊の騎士たちを率いる王子。きっと、誰よりも強く、誰よりも気高く、そして、誰よりも……冷たい、御方に違いない。想像するだけで、アイリスの身体は再び恐怖に、未知なるものへの畏怖に、固く強張っていくのであった。「……!」長い回廊の、突き当り。そこにはひときわ荘厳で、見る者を威圧するかのような巨大な双眸の扉が静かに佇んでいた。黒檀を磨き上げたかのような艶やかな黒い扉には、銀細工で見たこともない美しい星々の紋様が描かれている。「……」ここが終着点。アイリスは意を決して、冷たい扉、震える指先で、触れようとした。まさに、その瞬間であった。扉は彼女のその小さな訪れを永い時間、待ちわびていたとでもいうように、アイリスが触れるよりも早く、自ら内側へと開かれていった。「えっ……」それは主が大切な客人を恭しく迎え入れるかのような、動きであった。そうして、中に入るアイリス。部屋は、途方もなく広い。だというのに、本来そこにあるべき王族の権威を示す調度品は、ほとんど見当たらなかった。豪奢な彫刻が施された椅子や、来客のためのテーブルといったものは、この部屋の広大な孤独を邪魔せぬように、ただ壁際にひっそりと、影を潜めているだけであった。支配者の部屋というよりは、時が止まってしまった美しい墓標の中のようで──。部屋の最も奥まった場所には、他のどの調度品よりも一段と豪華な黒い水晶で造られた玉座
今まで見てきたどの扉よりも、一際大きく荘厳な彫刻が施された巨大な扉の前へとたどり着いた。 ここが、王子がいる部屋なのだとアイリスは直感的に理解した。 「……」 その扉の両脇を王墓を守る番人のように、二体の骸骨の騎士が微動だにせず固めていた。 彼らがその身に纏うのは、ただの鉄の鎧ではない。黒い宝石と銀で縁取られた、禍々しいほどの威圧感を放つ漆黒の全身鎧。 その手には巨大な戦斧が握られ、兜の奥から覗く青白い光は、これまでの誰よりも強く、冷たい。「っ……」恐ろしさと肌を刺すような圧に、アイリスは思わず後ずさりそうになる。 だが、その肩が震えたのを隣に立つ二人は見逃さなかった。 「姫様、ご安心を。彼らは、ただの警備にございます」 ジェームズが、落ち着いた声でそっと囁く。 「大丈夫ですわ、姫様。貴女様を害する者たちではございません」 リリーもまた、半透明の身体でアイリスの手に優しく触れてくれた。 「二人とも……」 二人の確かな支えに、アイリスは一度ぎゅっと目を閉じ、そして再び開いた。 もう、逃げないと決めたのだ。 だが、アイリスが決意の一歩を踏み出した、まさにその時。 「姫様。わたくしどもが、お供できますのは、ここまででございます」 ジェームズがどこか申し訳なさそうに、そう告げた。 「え……?」 「この扉の先は、王子様が、直々にお招きになられた方のみが、入ることを許される場所。たとえ、わたくしどもでも、お供は叶わないのです」 リリーもまた、その半透明の顔を、悲しげに曇らせていた。頼りにしていた二人がここから先は、一緒に来てくれない。その事実にアイリスの心は、ほんの少しだけ揺らいだ。また一人になってしまうのだ、と。 「……」 しかし二人のその眼差しは、謝罪し
館長のアーサーに別れを告げ、壮大な大書庫を後にした三人が次に足を踏み入れたのは、屋根のない広大な中庭のような場所であった。 アイリスはそこに広がる光景に、またしても言葉を失う。そこは庭園と呼ぶには奇妙で、だがしかし幻想的な空間だった。 空には、深淵のような闇。庭園を照らしているのは庭に生えている、見たこともない植物。そのもの自身が内側からぼんやりと光を放っているのだ。白骨のように滑らかな幹を持つ木々には、硝子細工のように透き通った葉が茂り、葉脈を青白い光が血液のようにゆっくりと巡っている。 地面を覆うのは、柔らかな苔。その苔もまた、踏みしめるたびに星屑のように淡い光の胞子をふわりと舞い上がらせた。 (綺麗……でも、なんだか、悲しい場所) そして庭のあちこちに咲き誇っているのは、花と呼んでいいのかも分からない、水晶の蕾。それは開く代わりに、呼吸をするかのように、蕾の中心で紫色の光を、ゆっくりと点滅させていた。 鳥の声も、虫の音も一切しない。ただ、完全な静寂だけが、美しくも物悲しい庭園を、支配していた。 その幻想的な光景の中を、アイリスは意を決したように隣を歩く二人へと声をかけた。 「あの……お二人に、お聞きしても、よろしいでしょうか?」 「はい、なんでしょうか、姫様。何なりとお聞きくださいませ」 ジェームズが、骸骨の顔を丁寧な仕草でアイリスへと向けた。 アイリスは一度ごくりと喉を鳴らし、少しの躊躇いの後ずっと胸に秘めていた問いを口にした。 「……王子様は。わたくしが、これからお会いする方は……その、どのような、御方なのでしょうか?」 その問いにジェームズとリリーは顔を見合わせた。そして二人の間に穏やかで誇らしげな笑みが、同時に浮かんだ。 ジェームズは一度言葉を選ぶように小さく咳払いをすると、確かな敬愛の念を込めて話し始めた。「王子様は……そう、でございますな。一言で申し上げるのなら、冥府の誰よりも、お優しい御方でございます。しかし同時に、何者にも揺るがすことのできぬ、鋼のような、強い
アイリスがこの国の不思議な住人たちに、ようやく親しみを感じ始めたのを見て館長のアーサーは、満足げに、悪戯っぽく瞳を輝かせた。 「そうじゃ、姫君!せっかくじゃから、この書庫、最大の問題児たちも紹介しようかのぅ!あそこに見えるのが、自分たちで勝手に恋の結末を、毎日、書き換えようとする、実に厄介な恋愛小説の棚で……」館長が次の「名物」を意気揚々とそう紹介しかけた、その言葉の途中。それまで黙って控えていたジェームズが、すっと館長の前に進み出た。「館長。お話の途中、大変申し訳ございませんがそろそろ、本当に、王子様がお待ちかねでございます。これ以上、お時間をいただくわけにはまいりませぬ」ジェームズのその言葉に館長のアーサーは悪びれる様子もなく、人の好い笑みを浮かべた。「おっと、そうじゃった、そうじゃった。わしとしたことが、つい引き留めてしまってすまんかったのぅ」しかし次の瞬間、朗らかな表情が、どこか遥か遠くの時の流れを見つめるかのような深いものへと変わる。彼は優しい瞳で、まっすぐにアイリスの瞳を見つめ返すと重要な秘密を託すかのように、言葉を紡ぎ出した。「姫君。王子は……あの御方は、ああ見えて、永い、永い時を、たったお一人で生きてこられた、寂しがり屋でのぅ」その声には、深い同情と慈しむような響きが込められていた。「じゃが、お主のような血の通った生者が、この国へ来てくれたことで、色々と変わるかもしれん。この国も……あの御方ご自身も……そして、我ら死者が、永劫の時から背負い続けてきた、『使命』も……」その言葉は確かな重みをもって、アイリスの心に響き渡った。「使命……?それは、一体、どういう……」その意味深な言葉の真意を、アイリスが思
次に、アーサーは、やれやれと首を振りながら、書庫のさらに高い場所を指さした。「そして、あの上でふんぞり返っておる、妙に偉そうな骸骨が見えるかの?あれは、自分を神だと信じておる、元・高名な聖職者の男じゃな。誰彼構わず、『罪を悔い改めよ』だの、『我を崇めよ』だのと、有り難い説教の演説を垂れておるが、御覧の通り、誰も聞いてはおらん。全く、哀れなことよのぅ」アーサーの指さす方を見れば、確かに遥か高い本棚の天辺に一体の骸骨が腕を大きく広げるという、大仰なポーズで鎮座していた。「……大書庫で、演説、ですか」その奇妙で場違いな光景に、アイリスはただそう呟くことしかできない。知識を求める場所であるはずの書庫で、一方的な演説が繰り広げられているという事実が奇妙さに、さらに拍車をかけていた。アイリスのそんな困惑を知ってか知らずか、骸骨は、今まさに、その説教のクライマックスを迎えているようだった。『聞け、迷える子羊たちよ!汝、その罪を深く悔い改めよ!さすれば、道は開かれ、汝らの魂は、この我によって、必ずや救われるであろう!さあ、祈るのです!この、唯一無二の、真なる神に向かって!』よく通る、しかし誰の心にも届いていない骸骨の演説だけが、静かなはずの書庫に虚しく響き渡っていた。誰にも届かぬ独りよがりな演説を、ジェームズは心底うんざりしたとでもいうように、骸骨の顎を軽く指で支えながら眺めていた。「全く、日課とはいえ、よくもまあ、あれほど中身のない言葉を、毎日毎日、大声で叫べるものだな……」「本当に。わたくし、あの方のせいで何度読書の邪魔をされたことか……」リリーもまた、その半透明の顔を、はっきりと不快そうに歪めている。「あ、あの……あのまま、演説を続けさせておいても、よろしいのでしょうか……?」アイリスが心配そうにそう尋ねると、
突然、頭に置かれたその手の感触に、アイリスの肩がびくりと大きく跳ねた。また、何か酷いことをされるのではないか。その恐怖が心を支配する。しかし、おずおずと顔を上げて見上げた館長の顔には、ただ好々爺然とした屈託のない優しい笑みが浮かんでいるだけだった。その瞳には、先程のエレオノーラのような侮蔑の色も、父王のような冷たさも一切見られない。「わしは、アーサー。この『万象の書庫』の館長じゃ。よろしくな、姫君」その手は死者らしく、ひやりと冷たい。しかし、物理的な冷たさとは裏腹に、その手のひらからアイリスがもう何年も、生者の国でさえ忘れかけていた、誰かが自分に触れてくれることの、確かな「温かさ」が、じんわりと彼女の凍てついた心の奥底へと、染み渡ってくるような感覚を覚えていた……。(冷たい……けど、暖かい……?なんで……?)それは久しぶりの、他者からの純粋な好意と優しさ。(この人は……この死者の方は……わたしに、優しくしてくれる、存在……)その事実にようやくたどり着いた瞬間、アイリスの心から強張っていた力が抜けていく。この人は、大丈夫。この、優しい「死者の人」は、決してわたしを傷つけたりはしない。その安堵感に、アイリスは思わず涙が滲みそうになるのを、必死で堪えるのであった。「……」アイリスが不思議な温かさに、戸惑いながらも安堵していたその時。リリーが、半透明の眉を、ぴくりと吊り上げた。「館長……姫様の御頭に、そう軽々しくお触れになるものではございませんわ。彼女は大切なお客様で、あなたのお孫さんでは、ないのですから」その声は丁寧であったが、その実はっきりと咎める響きを持